説教要旨
8月22日 「未来を信じて-毒麦のたとえ 」 大村 栄
マタイ福音書13:24~43
◇「24:天の国は次のようにたとえられる」と始まる。天国(神の国)は「神の支配」が満ちる所であり、それを生きるのが信仰の生涯であり、これを伝えるのが伝道だ。信仰を良い種、伝道を種蒔きにたとえている。
◇「24:ある人が良い種を畑に蒔いた。25:人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」。毒麦は食べるとめまいや吐き気などを起こすから、完全に除去する必要があった。しかし若い苗の時は良い麦と見分けがつかない。また穂が出る頃には根と根が絡み合っていて、抜けば良い麦まで抜けてしまう。だから早い内に取り除くのは困難だ。
◇主イエスは「30:刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われる。いま除去しなくても、最後の刈り入れの時、つまり世の終わりには、神による正しい裁きが行われ、抜くべきものは必ず抜かれる。最後の審判に委ねようということだ。人間的な判断で区別しようとするのは、神のように裁く者になろうとする危険な行為だとも言える。主イエスは善悪の安易な分類は危険だと言われるのだ。
◇と同時に、人間は植物と違って変化する。いまは毒と思われる存在がいつか良い麦に変わるかも知れない。今しか見ないで、部分しか見ないで裁いてはならない。キリストの愛と、神の忍耐を示している。
◇その忍耐を私たちに学べと言われている以上に、私たち自身が神の忍耐によって赦され、待たれている。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう」(黙示録3:20)。
◇無理に扉をこじ開けることはない。主イエスは辛抱強く戸を叩き、闇の中にいる人が決断して心の戸を開くのを待っている(ホルマン・ハントの絵画「世の光」)。
◇その扉は未来への入り口であり、神の国に向かう希望の道の出発点である。その道を一人でも多くの方と共に歩んでいきたい。
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