説教要旨
  
  8月15日 「主にある家族  大村 栄
            マタイ福音書12:43~50        

◇主イエスが伝道をしていた時、「46:母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」との伝達があった。入って来ないで外にいるのは、恐らく彼らは主イエスの側から出てくることを期待しているのだ。私たちもキリストの側から私に近づいて、私を慰め、励ましてほしいと願うが、それはキリストを自分に従わせようとする傲慢な態度と言えるかも知れない。

◇J・F・ケネディーの有名な演説の「国家」を、「教会・キリスト」と言い換えたい。「教会・キリストが自分に何をしてくれるかではなく、自分が教会・キリストに何を出来るかを考えよう」。教会で歓迎され、良いものを与えられるのを期待をするだけなら、外に立って待っていたあの家族と同じと言わざるを得ない。

◇主は外に出て行くことなくこう言った。「48:「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49:そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50:だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

◇「天の父」とは、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神であり(ヨハネ3:16)、その神の愛を実践するために、「十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2:8)だったのがキリストである。この大いなる愛への感謝と応答とを生きる者でありたい。「これまでの生活は神からの贈り物、これからの生活は神への捧げものです」(バレンタイン・デ・スーザ神父)。

◇その時、主イエスは「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言って下さる。「ここ」とは教会のことだ。私たちは、まさにここから神の愛に生き、実践するために、それぞれの所へと遣わされて行くのだ。感謝と応答のしるしとして。

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