説教要旨
12月6日 「アドヴェントの信仰」 大村 栄
マタイ福音書13:53~58
◇先週も述べた通りアドヴェントは「再臨の主」を待ち望む時だ。再び来られる主は「最後の審判」と呼ばれる裁きを行う。このような教理は難解で、素直に信じられない気がする。だが私たちは「日本基督教団信仰告白」で「我らは信じかつ告白す」から始まって、「教会は...愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」と唱える。難解だが、この信仰をしっかり受けとめたい。
◇主イエスは故郷のナザレに帰り、「54:会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。55:この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、...」。主イエスの育ちを知るナザレの人々は、自分たちの先入観でしかイエスを見なかった。だから主は、「58:人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」。
◇不信仰と言っても何も信じないのではない。自分の信じられるところしか信じない。主はそれを見抜いて、奇跡を行わなかった。行えば信じたかも知れないが、奇跡は信仰を促す手段ではない。神の領域である未知な世界を信じる人に、奇跡が行われるのだ。
◇「再臨」の信仰は難解だ。ミケランジェロの「最後の審判」は画家の想像したイメージであり、実態は未知だ。だがその未知の領域に、最後で最上の望みを抱くことが、再臨への希望なのだ。
◇内村鑑三(1861-1930年)は愛娘ルツ子が18歳で病死し、その後第一次世界大戦が勃発。彼は深い失望の中から、再臨のキリストによる救いと平和にしか、希望はないと確信した。そして言った、「十字架が聖書の心臓であるならば、再臨はその頭脳であろう」。
◇再臨は全く未知の世界だ。しかしそこにすべてを完成させる最後の望みがある。これを信じることが「アドヴェントの信仰」なのである。
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