説教要旨
    月9日 「ともにわかつみ糧」
      Ⅰコリント11:23~29  大村 栄牧師

◇コロナのため聖餐式が出来ないでいるが、そんな今だからこそ、教会が「聖餐共同体」であるということを覚えたい。テキストの23-26節はパウロによる聖餐式の制定の言葉である。「23:主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、...」。

◇後半は聖餐式の「序詞」に引用されている。「27:ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。28:だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」。

◇聖餐を受けるにふさわしいか、自分を確かめろと言われると心苦しい。私は若い頃、この言葉に耐えられず、聖餐を拒否したことがある。そんな罪責感を与えるために聖餐は制定されたのか。

◇主イエスはザアカイ(ルカ19:1~)などの徴税人や罪人たちと一緒に食事をすることを批判されて、こう言われた、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)。彼らこそキリストの愛と助けを必要としていたのだ。

◇聖餐式は「最後の晩餐」だけでなく先週の「5000人の給食」や、罪人たちとの食卓もその起源とする。(「リマ文書」1982年)。

◇では「27:ふさわしくない」者とは誰なのか。パウロはコリントの教会に「18:仲間割れがある」と言い、「20:それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」と言う。「21:各自が勝手に自分の分を食べて」しまうような、分かち合いもない食卓では、「聖餐共同体」としての礼拝も教会も成り立たないのだ。

◇「聖餐共同体」の聖なる交わりは、平和な社会の原点となり得る。これこそが教会にしかないものであり、教会のいのちなのだ。

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