説教要旨 3月22日
「愛の浪費と打算」 大村 栄牧師
ヨハネ福音書12:1~8
「愛の浪費と打算」 大村 栄牧師
ヨハネ福音書12:1~8
◇マルタの妹マリアは「3:純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」。1リトラは326グラム。マルコ14:3では「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。石膏の壺を壊してしまう。覆水盆に返らず。
◇イスカリオテのユダは、「5:なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言う。1デナリオンは労働者の一日分の賃金だから、「三百デナリオン」は年収額だ。モーセの時代から、「貧しい人々に施」すのはユダヤ人の徳目とされてきた。
◇マリアの、香油を捧げきったという行為は、そういう効率や合理性などを無視して、とことん捧げる愛だった。それは「愛の浪費」とも言われるだろう。だが愛には打算があってはならない。愛することの価値を求めている内に、愛は空しく失われていく。キリストへの愛は迷わずに捧げきる愛でなくてはならない。
◇主イエスがマリアの姉のマルタに、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10:41)と言われたのを連想する。
◇主は「7:この人(マリア)のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それ(香油)をとって置いたのだから」と言われた。主イエスこそは何の応答も見返り求めずに、自らを捧げ尽くして十字架に死んで、葬られた方だった。しかし三日目に、予想外の復活という形で、神はキリストの、何も求めない愛に応答された。
◇ナルドの香油を捧げたマリアの行為は、主の愛に応えて捧げる「愛の浪費」だった。そのような行為の上に神の御業が起こる。ユダには「愛の打算」があり「愛の迷い」があった。そこに神の御業は起こらないのだ。 (太宰治の短編小説『駆け込み訴え』の文学的解釈を参考に)。
◇イスカリオテのユダは、「5:なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言う。1デナリオンは労働者の一日分の賃金だから、「三百デナリオン」は年収額だ。モーセの時代から、「貧しい人々に施」すのはユダヤ人の徳目とされてきた。
◇マリアの、香油を捧げきったという行為は、そういう効率や合理性などを無視して、とことん捧げる愛だった。それは「愛の浪費」とも言われるだろう。だが愛には打算があってはならない。愛することの価値を求めている内に、愛は空しく失われていく。キリストへの愛は迷わずに捧げきる愛でなくてはならない。
◇主イエスがマリアの姉のマルタに、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10:41)と言われたのを連想する。
◇主は「7:この人(マリア)のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それ(香油)をとって置いたのだから」と言われた。主イエスこそは何の応答も見返り求めずに、自らを捧げ尽くして十字架に死んで、葬られた方だった。しかし三日目に、予想外の復活という形で、神はキリストの、何も求めない愛に応答された。
◇ナルドの香油を捧げたマリアの行為は、主の愛に応えて捧げる「愛の浪費」だった。そのような行為の上に神の御業が起こる。ユダには「愛の打算」があり「愛の迷い」があった。そこに神の御業は起こらないのだ。 (太宰治の短編小説『駆け込み訴え』の文学的解釈を参考に)。
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