説教要旨 3月8日
「神のわざが現れるため」 大村 栄牧師
ヨハネ福音書9:1~12
「神のわざが現れるため」 大村 栄牧師
ヨハネ福音書9:1~12
◇「1:イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。当時、原因不明の障害は何かの「罪」に対する「罰」(バチ)だと考えられた。弟子たちはそんな「因果応報」を前提として、罪を犯したのは「2:本人ですか。それとも、両親ですか」と問う。
◇「本人」だとすれば、生まれる前の「前世」で犯した罪の結果ということだ。前世・現世・来世の輪廻転生の思想である。「両親」だとすれば。「親の因果が子に報い...」。先祖の因果・因縁が災いしているから供養すべしなどと諭す宗教がある。
◇主イエスの答えは、「3:本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。理由のない苦難を、「なぜ、誰のせい?」と後ろ向きに原因や責任を追求する姿勢から、「何のため」と前向きに、目的に目を向けさせる。
◇「神の業」は英訳聖書では works of God.「神の働き、仕事」。私たちはそれぞれ、欠点や障害も含めて、神の働きぶりを現わす素材とされ、作品とされる。その目的で私たちは造られたのだ。
◇「6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7:そして、「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。
◇町はずれのシロアムの池まで泥を目に塗って歩いていった盲人の熱意を思う。聞いて、信じて従う勇気が彼に癒しをもたらした。しかし肉体の癒やしだけで「神の業」だとは言えない。
◇彼の癒やしを巡ってファリサイ派の人々はキリストを批判し、彼を追放する。しかしその試練の中で彼は主イエスと再び出会い、主を信じる者となった。そこまで含めてこそ「神の業」なのだ。
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