説教要旨

1月12日

  「見よ、神の小羊」 牧師 大村 栄
       ヨハネ福音書1:29~34

◇ヨルダン川で人々にバプテスマを授けていた洗礼者ヨハネは、主イエスを指して、「29:見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫ぶ。昔エジプトで「小羊」の血を塗ったユダヤ人の家は災いが「過ぎ越し」て、出エジプトに成功した。「小羊」と言えばユダヤ人は、そのときにほふられた「小羊」を想起する。主イエスの存在がそれに等しいとヨハネは言うのだ。

◇ユダヤ人はエジプトの支配にあえいでいたが、私たちは「罪」の支配にあえいでいる。「罪」とは自分を駄目にする力。原語では「的外れ」。何をやっても的を得ないでうまく行かない。自分の外から押し寄せ、内からわき起こるそんな否定的・破壊的な力だ。私たちは、自力ではそこから出エジプトできない。かつてあの「小羊」の血が必要だったように、私たちの罪からの解放のために、「世の罪を取り除く神の小羊」が血を流さねばならなかったのだ。

◇ヨハネ福音書では後半にも、ユダヤ人たちに主イエスを「見よ」と指し示す場面がある。兵士たちに鞭打たれ、侮辱された「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った」(19:5)。こんなやつをなぜ恐れるのかとローマの総督は言いたかったのだろう。しかし彼らは狂ったように、「十字架につけろ」(19:6)と叫ぶのだ。

◇無敵で強力な偉人などではなく、ピラトもあきれるような無力で惨めに見える人間を、神はあえて「世の罪を取り除く神の小羊」として用いられた。ローマ総督がやりそうな暴力的支配によってではなく、自己犠牲の弱さに徹するところに神の愛の深さが表されている。「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」(讃美歌280番「馬槽のなかに」)。

◇ヨハネは2度「わたしはこの方を知らなかった」と言う(31,33)が、「32:“霊”が鳩のように天から降って、この方(イエス)の上にとどまるのを見た」ので救い主と知った。聖霊はイエスを神の子と信じる力を与えるものだ。私たちも聖霊によって「世の罪を取り除く」ために、私たちの弱さのどん底に来られた「この人」、イエス・キリストを救い主と知り、心にお迎えしたい。

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