説教要旨
12月8日
「長子の特権」 牧師 大村 栄
創世記25:27~34
◇アブラハムの子イサクは妻リベカとの間に、エサウとヤコブの2人の息子がいた。「27:エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」。ある日エサウが空腹で帰宅すると、ヤコブが鍋で煮物を炊いていた。「30:お願いだ、その赤いものを食べさせてほしい」。すると弟は「31:まず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい」と言い、兄は「32:ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とそれを放棄した。「34:こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」。
◇長子は家や財産を相続する権利を持つが、神に対する特別な責任もあった。「イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(出エジプト13:2)。あらゆる産物の「初物」を神に捧げることによって、あとに続く産物が祝されるとされた。ヨセフとマリアの長子であるイエスも、誕生間もない頃に、「両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」(ルカ2:22)。エサウはそういう自分に与えられた重い責任を、一杯の煮物と引き替えに放棄してしまったのだ。
◇ところでキリストは、ルカによればヨセフとマリアの長子だが、ヨハネ福音書1:1に「初めに言があった。言は神と共にあった」。言とはキリストのこと。キリストは天地創造の初めから世にあり、言わば全被造物、全人類の長子だったのだ。人類の長子として大きな特権を持つ方が、その権利を放棄した。ただしそれはエサウのように、欲求のために「34:長子の権利を軽んじた」のではない。
◇むしろ長子の責任を全うするため、つまり長子であるご自分を神に捧げることによって、あとに続く弟や妹である私たちに祝福を与えるためだった。十字架について自分を犠牲(初物)として捧げるために、主はクリスマスに生まれたのである。
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