説教要旨
「平和の王の到来」 牧師 大村 栄
イザヤ書11:1~10
◇イザヤ書が書かれたのは紀元前700年。当時イスラエルは南の大国エジプトから攻撃され、北の大国アッシリアに保護を求めたが、そのアッシリアによって国の北半分が滅ぼされてしまった。神を忘れ、人間的な外交に頼った結果がこれだった。
◇ダビデから始まった王朝の不信仰に失望した預言者イザヤに与えられた言葉が、「1:エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち、2:その上に主の霊がとどまる」。エッサイとはダビデの父親の名で、彼は身分の低い羊飼いだった。
◇ダビデ以後の王たちは傲慢になり、イスラエルをすっかり駄目にした。「エッサイの株」から始まった木は、傲慢と不信仰の枝を伸ばす大木となり、それゆえにバッサリと切り捨てられた。だが神はイスラエルを見捨てず、傲慢の木が倒された切り株から再び芽が出て、若枝が育つと約束された。
◇若枝はメシアである。その到来と共に弱肉強食の世界が変革される。「6:狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」。狼や豹などの強者を鎮圧して実現する平和ではなく、強者も弱者も尊重し合い、共存する世界が聖書の語る「神による平和」である。
◇「木は自分で動きまわることができない。神様に与えられたその場所で精一杯枝を張り、許された高さまで一生懸命伸びようとしている。そんな木を私は友達のように思っている」(「椿」星野富弘)。自分の「許された高さ」を忘れ、「与えられた場所」を無視する人間は傲慢の大木を茂らせ、いつか切り倒される。
◇しかし切り株になったところに望みがある。「木には希望がある 木は切られても、また新芽を吹き/若枝の絶えることはない」(ヨブ記14:7)。大木が倒れたあとに残される「エッサイの株」から芽が出るように、神は無力になった者を用いて、新しい救いの道を開かれる。
◇同じイザヤが預言した。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)。救世主メシア誕生の告知だ。その名は「神は我々と共におられる」の意味であると、それから700年後にマリアのいいなづけのヨセフに明かされ、神の子イエスが生まれた。
◇弱い子山羊が狼の前に無防備に置かれるかのように、最も無力な赤子がベツレヘムの馬小屋で飼い葉桶に寝かされた。その幼な子こそが<神による平和>のしるしであり、その平和を実現するために来られた救い主なのである。この預言はたとえこの先700年かかってでも、必ず実現するであろう。
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