説教要

2019年8月18日
     「信じる決断」 牧師 大村 栄
            ルカ福音書9:51~62

◇主イエスが十字架の道に踏み出す時が来た。旅支度のためか、サマリアの村に入ったが、「53:村人はイエスを歓迎しなかった」。それを見て「54:天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と乱暴な提案する弟子もいたが、主は黙って立ち去るのみだった。

◇続いて3人の弟子志願者が現れる。第一の人物は「57:あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と勇んで言うが、主は彼に、「58:狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(キリスト)には枕する所もない」と、主に従う道の厳しさと、彼の認識の甘さを諫めている。

◇第二の人物には「59:わたしに従いなさい」と招かれるが、彼は「まず、父を葬りに行かせてください」と出発の猶予を求める。しかし主は、死んだ父親より私に従ってきなさいと、なおも強く彼を招く。

◇第三の人物は、「61:主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。家族に別れを告げてから従いますと条件を付けた。すると主は、「62:鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と、後ろ髪を引かれているなら、来なくて良いと言われた。

◇これら三者三様の対応から見て、弟子に招かれる基準は人間にあるのでなく、主の選びによるものだと分かる。その厳粛な選びの前に、私たちはなすすべもなく、自分自身が「身も魂も、生きている時も、死ぬ時もわたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのもの」(ハイデルベルグ信仰問答)ですと、お委ねするのみである。

◇私たちも「62:鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」と言われそうな、中途半端な者だが、せめて「58:人の子には枕する所もない」と言われる主イエスを、サマリアの人々がしたようには拒絶せず、「おいでください、イエスよ、ここに、この胸に」(讃美歌21-443)とお迎えしたい。十字架への道を行かれる主イエスを「わが主よ」と慕い仰ぎつつ。