説教要旨
7月21日
「もう泣かなくともよい」 大村 栄
ルカ福音書7:11~17
◇ナインという村のやもめ(未亡人)の一人息子が死んで、出棺の場面に主イエスが通りかかった。「13:主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」。「憐れに思う」とは、はらわたが痛むとの意味だ。ルカ10章の「善いサマリア人」と、15章の「放蕩息子」のたとえでも使われている。
◇私たちは泣いている人には「泣いたらいい」と言うのが慰めというものだと思う。「泣くな」と言うのは冷たいと感じる。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)との言葉もある。だが唯一ここに泣く者に寄り添い、「13:泣かなくともよい」と言える方がおられる。同情を越えて、涙の原因を根本から癒やして下さるからだ。
◇主は棺に手を置き、「14:若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われると、息子は起き上がった。後に十字架と復活によって死に勝利される神の子により、それを前提とする奇跡が「憐れみ」の心をもってここで行われた。人間の限界への勝利でもある。
◇私たちの肉体は限界がある。「一粒の麦」である私たちは必ず死ぬ。「だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ福音書12:24-25)。地上の命を愛しても肉体の死と共に「それを失う」。だがその先に、キリストによる新しい「永遠の命」を信じて生きた人の死は、喪失や消滅ではない。
◇讃美歌575.3「いのちの終わりは いのちの始め」。死を最終的な事態から、一時的な中断へと変えたのが、十字架と復活の主イエスである。このキリストによって私たちに、地上の限界を超えた未来への希望が与えられた。
◇この独り子を賜うほどに世を愛された神の愛の中にこそ、「もう泣かなくともよい」と言われる深い慰めを見出すのである。