説教要旨
6月30日
「探し求める神」 大村 栄
ルカ福音書8:40~56
◇会堂長であるヤイロの娘が重病で、彼は主イエスに「41:自分の家に来てくださるようにと願った」。そこに行かれる主を、群衆が取り囲む。その中に「43:12年このかた出血が止まらず、...だれからも治してもらえない女」がいた。婦人科の病気だが、不浄とされ、交わりから遠ざけられた。だから彼女は隠れながら、「44:後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」。
◇その後の主イエスの行為が異様だ。「45:わたしに触れたのはだれか」と探される。皆は知らないと答えるが主は探される。ついに女は「47:隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」。主は癒やしの奇跡を越えた、人格的な出会いと交わりを求められる。
◇彼女はその出会いの中で、すべてを打ち明け、自分を主にゆだねた。すると主は言われる。「48:娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。癒やしよりも信仰と救いがあった。
◇この間に、ヤイロの娘は死んでしまった。その知らせを聞いて彼は「49:この上、先生を煩わすことはありません」と言う。しかし主は「50:恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、彼の家に行かれ、「54:イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけ」ると、娘はすぐに起き上がった。十字架と復活により、主イエスは生死を超えて神との交わりに生きる道を示して下さる。それが一時的な癒やしとは異なる、永遠の救いである。
◇絶望的な状況にある時も、あるいは後ろめたさに身を隠したいような時にも、主は「どこにいるのか」(創世記3:9)と私たちを探し求めて下さる。その招きにこたえると共に、「安心して行きなさい」の言葉を待っている周囲の人たちに、取りつぐ者でもありたい。