月報より

月報巻頭言  第37号 2020年10月11日

 「ヨブ記のハッピーエンドは余計か?」 大村 栄

 旧約聖書の「ヨブ記」では、信仰深くて裕福な主人公ヨブは苦難に襲われ、家族を失い、財産を失い、健康も失いました。友人たちは因果応報論で彼を諭しますが、ヨブは納得しません。神に直接「なぜですか」と問いを叩きつけるのです。
 38章でついに応えがあります。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」(38:1-2)。おまえに真理を知る知識などない。世界の神秘をすべて理解するなど、人間には到底出来ることではないのだと神は説きます。
 41章まで続く神の言葉に圧倒されて、最後の42章でヨブは神に降参します。神の偉大なる支配の中で、人間が理解しうることなど、大海の一滴に過ぎないと知らされて、ヨブは神の支配に全面的に服従すると告白します。
 ところがその先、一番最後の42章7~17節にヨブが繁栄を回復するという記事があります。財産は失う前の2倍に増やされ、家族も新たに大勢与えられ、140才までの長寿に恵まれて安らかに死んだとあるのです。
 正宗白鳥という、大正から昭和に活躍した文学者は植村正久から洗礼を受けたキリスト者ですが、一時キリスト教から離れたようで、その原因は、この巻末のヨブの繁栄の回復という、聖書にしては現世的な記事への失望だったと言われます。
 確かにこのハッピーエンドがなければ、ヨブ記の信仰的な価値はもっと高まったと言えるかも知れません。津田治子という、ハンセン病の歌人(1912-63、カトリック信徒)は、「現身(うつせみ)にヨブの終わりの倖(しあわせ)はあらずともよししぬびてゆかな」と心打たれる歌を詠みました。

 ヨブ記は紀元前3~5世紀の亡国の時代に書かれたようですが、その頃にそんなハッピーエンドを描いたことについて浅野順一氏は、これはユダヤ人の「強固にして執拗な現世主義」の表れだと言います(岩波新書『ヨブ記』)。
 国を失って2000年、ユダヤ人は祖国を再興する夢と希望を失いませんでした。他の世界帝国はローマを始め、バビロニア、ペルシャ、ギリシャなどみんな世界史の彼方に消えていったのに、ユダヤ人は執拗なほどに、地上での運命の回復と祖国の再建を念じ続け、そして遂に実現したのです。
 近代以降ではロシアや東欧におけるポグロム、ナチスによるホロコースト、それらユダヤ人への集団虐殺も、この民族の希望を消し去ることは出来ませんでした。神は私たちのために、たとえ何千年かかっても、必ず目に見える形で救いを実現して下さる。ユダヤ人にはそういう並外れた忍耐力としての信仰があったのでしょう。
 私たちの信仰はどうでしょう。神を信じ、「みこころのままに」とゆだねて祈る私たちですが、必ず現実に叶えられるとの信念を、どれほどもって祈っているでしょうか。考えさせられます。

月報巻頭言  第36号 2020年9月13日

 童画「森の教会」 大村 栄

 私が主任牧師として最初の任地山梨県山梨市の日下部教会に遣わされたのは、1986~96年の10年間でしたが、そこで、童画作家でイラストレーターの杉田幸子さんという方に出会いました。
 東京の品川教会員でしたが、アトリエを兼ねたご自宅を市内の丘の上に建て、品川に行かれない日曜日には時々日下部教会の礼拝にいらっしゃいました。ぶどう畑に接したご自宅に伺って、親しくお話しをしたこともありました。
 聖書を題材にした作品(水彩画・版画)が多く、聖書の絵本や教会学校教案誌の表紙、クリスマスカードや多くのグリーティングカードなど出版されましたが、残念ながら2012年1月に67歳で脳出血のため逝去されたと聞きました。
 品川教会には、2017年に習志野教会から転会された市川純子さんがおられます。以前電話で杉田さんのことをお話ししましたら、それを幸子さんのご主人で同教会員の杉田博さんに伝えて下さいました。
 博さんは幸子さんの作品をホームページに載せて、「アトリエ銀穂」の名でネット販売しておられます。それを知って拝見しましたら、1枚のカードが目に飛び込んできました。それが上の「森の教会」と題するハガキ大の版画です。早速ネットで注文し、届いたところで改めて杉田博さんにお手紙しました。
 背後に深い森があり、三角屋根の十字架と赤い屋根、周囲にソテツがあることも、私が仕える習志野教会にそっくりなのですと言うと、彼は習志野教会のホームページを見て、「本当によく似てますね」と驚き、喜んでいるとのお手紙を下さいました。
 幸子さんは私がここへ来る5年前に召されていますし、決してこの教会を見たはずはないのですが、「森の教会」というタイトルも併せて、彼女がここを見にいらした事があるかのようで、不思議な気がします。
 カードに添えられた聖句は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ福音書11:28)。聖句が先か絵が先か分かりませんが、杉田幸子さんにとって、教会と言えばこの聖句だったのでしょう。人生の重荷を放り出すのではありません。それを負ったまま教会へ行くなら、それを共に負って下さる主イエスにお会いして重荷は軽くなり、担いうるものになるのです。
 そんな主との出会いが起こる「森の教会」でありたいと思います。

月報巻頭言 第35号 2020年8月9日

 「神の平和」 詩編127:1~2 大村 栄
   (平和聖日のための子供メッセージ)

 「八月や六日九日十五日」という俳句があります。1945(昭和20)年の8月6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下され、何十万人という大勢の人が亡くなりました。その他たくさんの被害状況を見て15日に日本は戦争の敗北を宣言しました。
 2度と繰り返してはいけない歴史です。世界には戦争をしている国や、いつでも戦争できる準備をしてる国はたくさんあります。お隣の韓国やアメリカなどにはクリスチャンも大勢いるけれど、国を守るために戦争が必要だと言うのです。
   
1:主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。
   主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。

 家を建てるのも、町を守るのも、国を守るのも、最後は神さまです。自分たちで守らなきゃ大変と思うと、やがて戦争の準備をすることになります。
   2:朝早く起き、夜おそく休み 焦慮(しようりよ)してパンを食べる人よ
   それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

 焦る心を静め、働く手を止め、戦いの準備をやめて、むしろ「眠りなさい」と言われます。眠っているあいだは人間の時間ではなく、神様の時間。そのときに神様が最善に働いて下さるのです。
 この夏、各地で豪雨の被害があり、被災地では皆さんが汗を流して復旧のための作業をしておられることでしょう。猛暑の中では10分働いたら5分休んで水を飲むのが必要と言われます。
 休むのは眠ることと似ています。神様に信頼し、それによって自分の気力を回復する時なのです。
 この世界を造り、ひとり子を下さるほどに世界を愛される神様は、この世界が平和であることを望んでおられるに違いありません。「主が家を建てて下さる」、「主が町を守って下さる」、「主が平和を実現して下さる」。そういう絶対の信頼と信仰を持ち続けたいと思います。

月報巻頭言  第34号   2020年7月12日

「神の家族のディスタンス」 大村 栄
       エフェソの信徒への手紙2:11~22 (7月5日の説教より)

 エルサレムの神殿には、異邦人が超えてはならない壁がありました。その先も幾重にも壁があって一番奥の「聖域」を一般の人から遠ざけていました。今も各所に人と人とを隔て、神と人とを遠ざける壁があります。パウロは異教の町エフェソに住む異邦人キリスト者の群に呼び掛けます。
 「13:しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」。まず人と人との距離(ディスタンス)が近くなりました。敵対する者同士も和解させられました。「14:実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し...」。和解のために主イエスが十字架で「肉」を裂かれたのです。
 これを一人の神を父と仰ぐ、「19:神の家族」の交わりとも言っています。
 本来家族でない者を家族として迎えるのは容易ではありません。私は戦後に盲人牧師だった父が東京の高田馬場に開拓したシロアム教会で生まれ育ちました。オリンピック景気で湧いた1960年代には、仕事にあぶれた人々がしばしば教会へ物乞いにやって来ました。父は時には彼らを、私たち家族と同じ食卓に迎えることもありました。それは子供心に、とても嫌な体験でした。
 他人を家族同様に迎える抵抗は、神様にとっても痛みを伴うことだったのではないでしょうか。その痛みの究極がキリストの十字架です。その痛ましい十字架の執り成しによって、罪人である私たちが「神の家族」に迎えられたのです。
 十字架は人と人との距離だけでなく、神と人との距離も近くさせました。「16:十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。神との和解ができてこそ、人との距離が近いものになるのです。
 十字架で苦しまれた末に、「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:37-38)。この垂れ幕は、エルサレム神殿の一番奥にある、大祭司だけが入れる「聖所」を仕切る「隔ての壁」、すなわち神と人とを遠ざける壁でした。十字架の死によって、これが真っ二つに裂けたのです。
 コロナウイルス感染予防のため、スーパーのレジなどには透明なシールドを貼って隔てています。また衛生上人と人とのソーシャル・ディスタンス(社会的距離)を少し遠ざけるのが必要とされます。
 それらは教会でも注意し、慎重に対処しますが、しかし私たちは何よりも、キリストの十字架によって「隔ての壁」(シールド)が取り壊され、神と人との縦の距離(ディスタンス)、人と人との横の距離が近くされたことを覚えたいと思います。
 コロナのために今日は第一週ですが聖餐式を行いません。でも聖餐卓はいつもここにあります。ここはキリストの十字架を偲ぶ場所であるとと共に、それによって私が子供の頃に経験したような「招かれざる客」も招かれる食卓なのです。私たち自身が招かれていることを感謝しましょう。